おくらのリハビリ日記

アタマとからだのリハビリテーション

2025年。人生の残された時間をどう生きるか【閑話休題・・でもない】

今週のお題「2024こんな年だった・2025こんな年にしたい」 そうですか〜、はてなブログさん、またまた「重たい」テーマを出してきたねえ〜(笑)
年明けの一発目ということで、では考察だ。

2024年はこうだった(こうなった)

ちょっと前に出されたお題「今年の目標どうだった?」に対して「【閑話休題】予想もしなかった今年のダイエット目標達成(間近) - おくらのリハビリ日記」で書いた通り、2024年の年初に宣言した15キロ減量という目標は、脳卒中という「高い代償」を伴って強制的に達成された・・・自分の意思とは関係なく、ということであります。
 10月末に「突如」脳の被殻出血を発症し、左半身のリハビリを経て12月17日に退院。2024年はどうだったと聞かれても、この「事件」以外には、2024年は何もなかった・・・に等しい。
 入院翌日には動いた左足はまだしも、発症と同時に脳との通信回路を「切断」され、一旦「死んだ」=動かなくなった左腕から左手までは、新生児のように生まれ変わったようで、リハビリがてらに今この文章をタイピングする左手も必死で右手についてきてる状態。「リ・ハビリテーション」とは文字通り、能力を再度獲得するということ。
 ひと月半以上の病院食と、退院前の栄養指導のおかげですっかり「少食」「菜食主義」になり、体重は順調に減少中。かつて好物だった「数の子」「昆布巻き」も、砂糖たっぷり「黒豆」も無く、玄米もちを使った超うす味の雑煮と、茹でただけの「野菜」で正月を迎えた。

2025年の数値目標はこれ

「シャバ」に戻ってきたワタクシ=零細IT会社の経営者=を正月明け早々待ち受けているもの。それは、未完のプロジェクト、請求書、赤字。倒産と廃業、失業への恐怖・・・といった所だ。
 幸いにも声をかけてくれたかつての仲間やお客さんがいて、当座はしのげるかもしれない、とにかく今から3ヶ月・・・3末決算まで残り3ヶ月が、会社生き残りに向けたヤマ場、土壇場、正念場ということになりますが。無理は効かない身体でどこまでムリするつもりだ?
個人的な目標まずは具体的な数字でね。

1. 今年2025年は今から12キロの減量で、体重75キロ台を達成する!
2. 血圧と血糖値を正常範囲内にする!・・正常って、130/80以内で大丈夫? ヘモグロビンA1Cは7%未満に(発症時は10以上、12月初旬で9.1=まだ即入院レベル)
医師とは上記の会話はしているから、目標設定としてはまあ合理的だろう。そして問題は・・会社という社会的な存在の目標はこれ。
3. 年度末で会社の存続。24年度が赤字決算なら2025年度の黒字回復

 入院当日「リハビリは最長6ヶ月」と言われたが、もしその通りだったら自分の「事業」はそこで終わっていた筈だし、重度の麻痺が残り絶望する脳卒中患者も大勢いる。もちろん生きて帰らない人達もいるわけで。
 手の片方がマヒするだけで、靴ひもすら結べなくなったのだ。しかし1ヶ月半、左半身が生まれ直した自分にはまだツキがある、と思ってるから。

人生の残された時間をどう生きるか

 退院後の年末、とある記事を見ていたら、大腸がんを宣告された料理人が「「人生の残された時間で何をしたいか」を考えてナイジェリアで料理店を開くという記事を目にしたんですが・・あぁこれこれ。

news.yahoo.co.jp

 30代ですげえな、大したもんですねと思う一方、「高齢者」の仲間入り(還暦ってことでいいかね?)が徐々に近づき、いやそうなる前に脳内を自分の血で汚しちゃった私が考えるべきことは、まさにこれじゃったと。そういえばかのスティーブ・ジョブスも、膵臓がんにかかった後のスタンフォード大学の卒業祝辞で、似たようなことを喋ってますな。有名なのは最後の「ステイ・ハングリー ステイ・フーリッシュ」ですが、はい動画。これは毎年1回は見直してる。別に「アップル信者」ではございませんが笑

www.youtube.com

ほんで、このスピーチ途中に出てくる、

If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?

「もし今日が人生最後の日だったら、私は今日の予定をしたいと思うだろうか?」 それがNOの日が続くなら、「何かを変える必要がある」と彼は言うわけです。
 お前は、どうなんだ!?
というコトでもありますが、目先の仕事をなんとかするしかない、するしかないが、そんな目先の事に追われるだけでいいのか? 結局私は、わたしは・・・どーすんのよ????と。

今日のしょーもないオチですが

とりあえず、生産性向上の名目で、今日のところは、
新型iPad AirApple Pencil Pro を買うことにしましたとさ。アップルの初売りセール中だから!左手のタイプがきつい時はこれで手書きするってのもアリでしょ・・・
なんだ物欲に走ったかオレ、ついにリンゴ印の軍門に降る。。。
「人生の残された時間をどう生きるか」は、この正月三が日に毎日、それから毎週、毎月。。。
仕事があればなんでもやりマスの、ブレブレにブレてきた我が人生はじっくり考えることにして(本当か)、2025年の終わりにはブレない軸が「少しはハッキリできたら」いいすね、と。スタバでiPadをいじって「ドヤるオレ」とか。。
おい!おい!!wwwww

Appleの初売り。初めてのiPad Airを買う

リハビリの始まり(3)理学療法士とPT

2024年11月02日 金曜日

10月29日早朝の脳出血により救急搬送され即日入院した私は、2日目に言葉の発声練習を始め、3日目に一般病棟12Bへ移動した。
そして4日目、11月2日から、3種類のリハビリが始まった。「言語療法」「作業療法」に引き続いては、歩行練習を伴う「理学療法」である。 〜
言語療法ST室の小部屋、作業療法OTの部屋の隣り、透明な窓で区切られた向こう側には体育館のような広大な空間が広がっていた。OT室に近い方には歩行練習用の平行棒や階段があった。フロアの真ん中付近にはベッドが複数並び、いちばん向こう側の窓際にはスポーツジムにあるような歩行用マシンやエアロバイクが並んでいた。 PT室の入口のようなひらけた所に、背の高い若い女性が待っており、私を認識し挨拶した。担当の理学療法士なのか。挨拶もそこそこに私はベッドの1つに誘導され、車椅子から降りベッドに仰向けになった。両足の動作を確認しながら、車椅子は使わなくても少しは歩けそうだという事を確認したようだった。足のストレッチと、その後足を上げ下げしたり、両膝を曲げて立てた状態でのお尻上げトレーニング。その後、「ちょっと杖で歩いてみましょう」と指を差されたのは四点杖である。フツーにイメージした一本の棒の「杖」ではなくて、先が4つに分かれて、倒れることなく自立して置く事ができる、そんな杖があると知ったのも初めてだった。麻痺のない右手で杖を前に置き、麻痺側の左足を前に出し、次に右足を出して進む。先ほどリハビリを受けたOT室と、ST室の前を通り、フロアを一周して数十メートル、これを何周か行っただけで、初めての理学療法(PT)は終了した。このリハビリ中に初めての見舞客、社員がやってきた。

左肩からだらんと垂れ下がった左腕と左手に比べ、左足はかなり活発に動かせる、生きてる!歩ける&割と早期に歩けそうだということが分かった。

病室に戻った後に看護師がやってきて、週明け、都立大学の学生が実習に来て私の付き添いをしたいと云う。身の回りのお世話をしてくれるのか有難いなあと承諾した。若い女のコが来るのだろうかと余計な想像をしたが、翌週やつて来たのは感じのいい男子学生だった(笑)

リハビリの始まり(2)作業療法士とOT

2024年11月02日 金曜日

10月29日早朝の脳出血により救急搬送され即日入院した私は、2日目に言葉の発声練習を始め、3日目に一般病棟12Bへ移動した。
そして4日目から、3種類のリハビリが始まった。最初のリハビリ「言語療法」に続いては「作業療法」である。

ST室を出ると少し先に「OT室」があった。室というよりは、幼児たち十数人が遊べるような、保育園幼稚園のクラスルームのような印象を受けた。
というのは、壁際の棚に子供が遊びそうな「おもちゃ」のようなものが並んでいたからだ。
私はこの日初めて「作業療法士」というシゴトがあること、それは理学療法士と並んで、リハビリを支える中心的な存在であることを知った。
最初に私の左手を握った人は理学療法士と書かれた名札をつけていたが、その後もう一人やってきた「リハビリの人」に、ここで再会したのである。「リハビリで脳と手の間に新しい神経回路を作り直すんです。」と言った人だ。そしてその人の名札には、「作業療法士」と書いてあった。このヒト、理学療法士じゃなかったんだ。でも、作業療法とはなんだ。理学療法士作業療法士は違うことをやるのか?
車椅子でテーブルについた私の、手を取って動くかどうかをチェックしてから=腕はクレーンのように回ったが、手首から先はほぼ動かなかった=、彼は目の前に「おもちゃ」を出してきて・・・ボールや四角い木の積み木のパーツ・・・を広げ、掴んでみるように促した。 テレビドラマで、バーにつかまって歩行練習をするシーンはいかにも「リハビリ中」に見えるが、この後1ヶ月以上にわたって、実はそれよりはるかに地味な「手と腕のリハビリ」が行われることになったのっであ。 ただこの時の私はまだ、作業療法士がどんなことをするのかを、全く知らない。モノを掴んで、掴めたら置く、まさに赤ん坊が覚える過程を、短時間で繰り返し、身体を元に戻さなければならないのだと思った。最初の作業療法=OTはあっという間に終わった。
(続く)

作業療法とはなにか?

作業療法士は英語で『Occupational Therapist(オキュペイショナル・セラピスト)』といい、医療現場では頭文字をとってOTと呼ばれています。 日本作業療法士協会という団体のWebページで、作業療法士の仕事が説明されています。

https://www.jaot.or.jp/assets/images/content/ot_job_01.png

作業療法の世界では、人間の生活の中のあらゆる活動、つまり起床、着替え、トイレ、洗面、食事、家事や、仕事、遊び、スポーツなど、人を取り巻くすべての活動が「作業」として扱われます。

https://www.jaot.or.jp/assets/images/content/ot_job_03.png

実際われわれ人間は、単純に歩いているだけではなく、日常生活、社会生活を送っているわけで、生活の中の動作ができなければ非常に困ることになります。 私の場合は仕事でキーボード(PC)を叩いているので、それができなければ「復帰」もできず・・キーボードを叩けるようになるまで、左手の手指の運動をリハビリしてくれる存在、それが作業療法士でした。

作業療法士のお仕事

作業療法士とはどんな事をするのか、わかりやすい解説動画がありましたのでここにリンクしてシェアします。

www.youtube.com

【閑話休題】予想もしなかった今年のダイエット目標達成(間近)

今週のお題「今年の目標どうだった?」 はてなブログさんがこんなお題を出してくれたお陰で「そういや正月になんか宣言してたな!」と思い出し、Facebookのアクティビティログを漁ってしまったんですわ。
そして発見した「年内に15kg減量する!」という宣言。
今年も残り1ヶ月を切って思い出す(笑) 例年ならアウト、手遅れ。 
この15年ほど、ワタクシ体重が0.1トン(100kgともいうね)を切ったことがありませんでした。最高では110kgと・・・
身長167cmで105kgとは、驚異のBMI値37超え(105÷(1.672))。喉が渇きやすいとか糖尿病の自覚症状テキな事象(オヤジが生前よく言ってた)もあり、こりゃ絶対に体重を減らさないとな。頑張れ体重90kg・・・それで始めたスクワット運動、確かに夏頃には100kgを切るかどうか、くらいになりましたが・・・

ほんで、仕事がバタついてそんな目標も忘れたくらいの10月の終わりに「ソレ」は発症したのであります。
錦糸町の救急病院のSCU(脳卒中ケア・ユニット)に救急搬送され右脳の被殻出血の診断。左半身の麻痺(リハビリ中)と言語障害(現在解消)
体重は最初の病院にいた2週間で7キロ減少。
いま入っているリハビリ専門病院でも、土日も関係ない毎日のリハビリ運動と、1日1760kcal以内の「糖尿病食」のお陰で体重は減る一方であります。
いま91kgちょうど、ついに「年内80kg台」すら見えてきて、「目標達成」が宣言できるという。。
しかしそのために

大きな代償を支払ったな

と。
毎年ダイエットの目標を立てる人は大勢いらっしゃいます、特に年初はそんな宣言・お約束を山ほど見ますが、そういうの「未達成」が何年も続くと「ツケ」として溜まり、いつか支払わされるかも。

「血圧を下げる/脂肪を燃やすドリンク・食品・番組」なんてアテにしないで、血圧を実際に測定して、ヤバかったら病院行け、ですよ。
それが代償を払って「目標達成」した私の教訓。

※折角なのでけさの病院食を追加しました(写真)

リハビリの始まり(1)言語聴覚士とST(スピーチ・セラピー)

2024年11月02日 金曜日

10月29日早朝の脳出血により救急搬送され即日入院した私は、2日目に言葉の発声練習を始め、3日目に一般病棟12Bへ移動した。
そして4日目から、3種類のリハビリが始まった。

朝食後に看護師が、今日10時半からリハビリの予定が入ってますよと伝えに来た。待っていればいいですか、はいと。ついにリハビリが始まるのか。テレビドラマで時々出てくるシーンのような、歩く練習をするやつか。。。 時間通りに迎えのスタッフがやって来て車椅子に乗る。エレベーターでひとつ上の13階に到着すると、ST,PT,OTという文字と矢印が書いた貼り紙が目に留まった。

自分が働く業界〜システム屋の用語では、ST=システムテスト、PT=プログラムテスト、OT=運用テスト(オペレーションテスト)を思い浮かべるが、ここでの用語は違った。

ST=スピーチセラピー=言語療法
PT=フィジカルセラピー=理学療法
OT=オキュペーショナルセラピー=作業療法

なるほど!世界が変われば用語も変わる。これからしばらく、STはシステムテストじゃなくスピーチセラピーだ。

小さな病院の診察室のような部屋に、さらに小さな小部屋が2つ並んでいた、そのうち「ST室1」と書かれた小部屋に入ると、中にいたのは数日前SCUで私の発声能力をチェックしてくれた「マキさん」だった。おはよう。テーブルを挟んで、向き合って座った。間にはコロナウイルスで飛沫防止用のアクリル板がある。
「嚥下体操やってる?パタカラやった?」あ〜、ベッドでやってますよ。パパパパ、タタタタ、カカカカ、ララララ、パタカラ、パタカラ・・・言えるでしょ
(あの、老人ホームの人々が誤嚥防止のためにやるような口の運動すね。つまんないけど・・・)
彼女の手元に目をやると、読ませるための日本語の文章と、その横にアルファベットとは異なる、「発音記号」が書かれたテキストが目に留まった。
「それって・・・国際発音記号じゃない?」
彼女はえ〜っ、よく知ってるわねえ〜!と驚いた。正しくは「国際音声記号」というのか。英語で発音の仕方を学ぶのに発音記号が使われるけれども、あれの世界標準版で、英語だろうが日本語だろうが、人間が発する言葉を記号で表現できるやつ=まさに発音記号、である。
その後、彼女は文章を読み上げ、それを繰り返すように指示した。リピート アフター ミー。「電車が走る」「朝起きて歯磨きをする」「サファリパークでライオンを見ます」「友達から旅行の手土産をもらった」のようなものだ。
苦手な、というよりスムーズに発音ができない部分は、自分でもハッキリわかった。
「ら行」だ。らりるれろ。喉がカラカラですの「ラ」や、周りをキョロキョロ見る「ロ」の発音が怪しく、「日本語学習中の欧米人」のような発音になる。 マトモにしゃべれる(ら抜き言葉)ためには、練習しないといけないようだ。日本人が行う50代からの日本語学習か(笑)「マキ先生」は宿題を出すからやっといてね、と宣言して、20分ほどで初めての言語リハビリが終わった。
車椅子はST室を出て、次の部屋に案内された。OT、、、作業療法だ。
(続く)


脳卒中からのリハビリを支える仕事(1)言語聴覚士

このブログは現在、2024年10月に脳出血を発症した私の振り返り、経験、病歴とリハビリ過程を綴る日記となっております。ストーリーはようやく、リハビリの開始に辿り着きました。
脳卒中で、呂律が回らない状態に陥った自分には、発声、発話に多少の障害が残りました。「フツーの人」として言葉をしゃべるためのリハビリが必要、それが言語療法(ST: Speech Therapy)ということになります。そのためのセラピストが「言語聴覚士
日本言語聴覚士協会のWebサイトでは、言語聴覚士の仕事が紹介されています。

ことばによるコミュニケーションには言語、聴覚、発声・発音、認知などの各機能が関係していますが、病気や交通事故、発達上の問題などでこのような機能が損なわれることがあります。言語聴覚士はことばによるコミュニケーションに問題がある方に専門的サービスを提供し、自分らしい生活を構築できるよう支援する専門職です。また、摂食・嚥下の問題にも専門的に対応します。
ことばによるコミュニケーションの問題は失語症高次脳機能障害の他、聴覚障害、ことばの発達の遅れ、声や発音の障害など多岐に渡り、小児から高齢者まで幅広く現れます。言語聴覚士はこのような問題の本質や発現メカニズムを明らかにし、対処法を見出すために検査・評価を実施し、必要に応じて訓練、指導、助言、その他の援助を行います。
このような活動は医師・歯科医師・看護師・理学療法士作業療法士などの医療専門職、ケースワーカー介護福祉士・介護支援専門員などの保健・介護・福祉専門職、教員、心理専門職などと連携し、チームの一員として行います。
言語聴覚士は医療・介護・福祉・保健・教育など幅広い領域で活動し、コミュニケーションの面から豊かな生活が送れるよう、ことばや聴こえに問題をもつ方とご家族を支援します。

言語聴覚士は1997年に国家資格として制定されたとのこと。言語聴覚士になるには国家試験に合格して厚生労働大臣から免許を受けることになります。
日本脳卒中協会というところで、言語リハビリの解説を動画にして出しています。(第5部 自宅でできる言語聴覚療法)

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糖尿病

2024年11月01日 木曜日【ストーリー】

10月29日早朝の脳出血により救急搬送され即日入院した私は、2日目に言葉の発声練習を始め、3日目に一般病棟へ移動した。これからは復帰に向けてリハビリになるという。。。

病室にやってきた脳神経外科の医師が、「調子はどうですか?」とやってきた。 今後の治療方針だが、血圧と血糖値を薬で下げるらしい。
「あのね、あなた発症時の血糖値は、ヘモグロビンA1Cが10以上、フツーの血糖値で300とか400あったんじゃないかと思いますよ!」
健康診断で血糖値100とか120ならいつも目にしていたが、健康診断を受けていないこの数年でそんなに上がっていたのか!?と驚愕。そりゃ糖尿病にもなるわな、と。
ということで、飲み薬を内科と調整してますから、それを飲んでくださいという話で、その日の巡回問診?は終わった。
糖尿病→高血圧→脳卒中。まさに絵に描いたような定番コースだな、自嘲。
ところで、病院に入院したことが50年近くなかった自分にとって、病院内の業務、コミュニケーションのシステムはなかなか驚嘆ものだった。 なにしろ、単なる健康状態の記録だけでなく、医師、看護師と会話した中身も全部分かってシェアされているようなのだ。初日にSCUの看護師に、仕事は何ですかと聞かれて答えただけなのに、一般病棟でもすでに「IT企業のシャチョーさん」だとみんな知っていて、いや知ってる前提で話しかけてくる。すげーな、病院システムはプライバシーのカタマリじゃないか
一般病棟では、病室内の通話は禁止だが、ネットのほうは公然と繋ぐことができるようになった。これであれやこれや、調べられるようになるな。
その日の夜、突然の見舞い客がやって来た。むかし、サラリーマン時代のお客さんであり今でも繋がっているKさんだ。
彼は以前に脳梗塞を起こしており、その時の経験=顔面麻痺から食事をこぼした事=を事前に聞いていたので、10月29日に自分を襲った異常事態に対して「まさか」の認識と119番通報を判断することができたのだった。生きてて良かった、と言いながら
「まさか、あの話が役に立ったとはねえ・・・」
見舞いにどうぞ、と出してくれたのは、スマホにもPCにも繋がるイヤホンだった。ヨメさんが入院した時、何か必要なものある?と聞かれて即答されたのがこれ、イヤホンだったと。これは役に立ちますね、と有り難く頂戴した。

(続く)


糖尿病と脳卒中

2024年10月に脳卒中脳出血)=右脳の被殻出血=を発症してから37日が経過。この1ヶ月の出来事を思い出しながら、左手のリハビリも兼ねてノートPCのキーボードを叩いています。
脳出血は高血圧によって引き起こされたと、当然の因果関係が想像つくわけですが、その高血圧も、長年の高い血糖=糖尿病から引き起こされた、というのがシロウト目にも明らかになってます。
一ノ瀬脳神経外科病院のWebサイトによれば、

糖尿病の症状は血糖値 300mg/dLくらいまでは無症状です。血糖値 400mg/dLを超えてくると、口渇、多飲、多尿、急激な体重減少などの症状がでてきます。

とのこと。 そしてまた別の記事によれば、

糖尿病が原因でおこる脳の病気として主なものは脳梗塞です。糖尿病になると脳卒中になる危険性が男性で3倍、女性で2倍になります。

とのこと。
(江草 玄士(中国労災病院 代謝内分泌科)講演『糖尿病と脳卒中の危ない関係』)

自分の場合は脳梗塞ではなく脳出血ですが、いずれにせよ脳卒中。起こるべくして起きた、それが糖尿病からの高血圧からの脳卒中だったわけですね。
後悔先に立たず(再)

血糖値とヘモグロビンA1C

ストーリー中に出てくる「ヘモグロビンA1C」(hbA1C)私は今回、医師に聞くまで言葉も意味も知りませんでした。
いつもの国立循環器病研究センターの解説を見てみます。

ヘモグロビンは赤血球内のタンパク質の一種で、全身の細胞に酸素を送る働きをしています。血液中のブドウ糖がヘモグロビンとくっつくと糖化ヘモグロビンになります
HbA1cは糖化ヘモグロビンがどのくらいの割合で存在しているかをパーセント(%)で表したものです
HbA1cは過去1~2ヶ月前の血糖値を反映しますので、当日の食事や運動など短期間の血糖値の影響を受けません。

なるほど。。。血糖値が高く、糖化ヘモグロビンが増えると、平均的な割合としてのHbA1Cは増える、ということらしいすね。
この値、6.5%以上なら糖尿病型、6.0%以上で要検査ということですが、10%以上ってどんだけ血糖値高かったのだ・・・

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3日目〜高血糖・高血圧・脳卒中(後悔先に立たず)

【ストーリー】2024年10月31日 木曜日

 

10月29日早朝「脳出血」により救急搬送、入院となった私は、2日目には言葉のリハビリを始めた。麻痺していた左手はわずかに動き始めた。

 

発症3日目

看護師からは、10時すぎにSCUから一般病棟に移るという案内があった。危機は脱した、今後はリハビリを頑張れということなのだろう。朝食後、看護師に誘われて車椅子に乗りフロア内を「散歩」(走行?)させてもらう。車椅子というものは、足が不自由な人が手で漕いでいるイメージだったが、利き足で蹴って走らせるのだということを今回初めて知る。左手はだらんとぶら下がっていて漕ぐことは出来ないし、外側にあると車輪に巻き込まれる危険があるので利き手で掴んで身体の前に置くようにと厳しく指導される。車椅子の他に長さ可変式の杖も用意された。

SCUに戻ってくる時に「歩いてみる?」というから、そりゃ歩いてみたいぞと、廊下に走る手すりの脇に車椅子を止め、立ち上がった。右手で手すりにつかまりながらゆっくり足を出してみる。「ゆっくりですよ、ゆっくり!」ちょっと足を怪我した人がびっこをひくように、左足をやや引きずり気味ではあるが歩き、SCUの入口で今度は杖を渡され、杖で歩いた。これは歩けるようになるだろうと期待する。

10時すぎ、改めて車椅子に乗り、エレベータで12階の一般病棟12B-3号室という、定員4人の相部屋の窓際に収まった。なお、初日に管が繋がれて「おしっこ」は自動的に排出されていたが、それは一般病棟で外された。用を足すのは自分で(ナースコールをして)ということになった。

 

2日前、この病院のSCUに入った瞬間から「やっちまった!」という自覚はあった。脳出血=脳の血管が破れた、というのは高血圧に間違いない。その高血圧をもたらしたのは高血糖、要は糖尿病なんだろと。対症療法としては血圧を下げて出血を止める以外にないんすね。

お仕事はなんですか?健康診断はいつ受けましたか?と初日は看護師に聞かれたが、私は自営業フリーランスシステムエンジニアを経て会社の経営をやってます、健康診断はここ数年受けてませんと、自慢にもならない回答しか出来なかった。

実際12年前、私は半年ほど沖縄で暮らし、それから香港に渡航して現地の物流企業に就職した。いわゆる海外就職、現地採用である。サラリーマン時代には会社の健康診断で毎年、血糖値や血圧が高めですねえ、特に体重・・痩せなきゃと「注意」を受けていたが、早期退職し、渡航前の健康診断を沖縄で受けた時には、肥満度が30以上ある割には全ての数字が正常範囲内だった。それから数年間を香港・中国で過ごし、おそらくかなりの暴飲暴食をし、体重も一段と増えて帰国。

改めてフリーランスのITエンジニアを続けながら、コロナウイルスパンデミックの最中に小さな会社を興し、仕事、シゴトを続けてきたのだ。血糖値に血圧、どちらも気にはなってるがまあいいや落ち着いたらで。。。夏からは一応、毎日スクワットで下半身を鍛えようと運動し、10月には通勤も自転車(クロスバイク)にした。実際下半身の筋力だけはかなりついてきていた。とはいえ、毎日の「晩酌」や酒の肴=肉食の習慣は欠かさなかった。

なんでこうなった?健康診断を受けていれば、こんなことにはならなかったのではないのか?いや糖尿病の治療を始めていたらこうはならなかったか?あるいは遅かれ早かれ同じことになっていたのでは?こういうのは遺伝か?オヤジは糖尿病を患い、その弟の伯父さんは脳卒中で倒れた、これって家系だよな。やっちまった時の血圧は一体どれくらいあったのだろう。初日のSCUのモニタリングは点滴をしながらもほぼ150/90以上が続いていたけれども・・

何を言っても、後悔先に立たず、だが、

後悔しても始まらんのだ。

そんな事を考えているうちに、会社の共同経営者からSNSメッセージが届いた。一般病棟に移った事をスマホから送ってあった。病室内は、携帯の通話は禁止だがネットは自由にできて有難い。

おぉ〜とりあえず、集中治療室から出れて安心しました。必要なものとかあれば、明日病院行きますよ。

それじゃとりあえず、明日ユニクロで着るものを買ってきてくれない?と依頼して、私はまた眠りに落ちた。

(続く)

 

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高血圧からの脳卒中:脳血管疾患の「基本パターン」

 

脳卒中脳出血)=右脳の被殻出血=を発症してから約1ヶ月が経過し、今回の投稿は左手のリハビリも兼ねてノートPCからタイプしております。

私の脳出血に対し、脳卒中専門の集中治療室(SCU)で施された処置は、出血を止めるために血圧を下げることでした。

出血量が多い時や、出血が止まらないような場合は、「開頭手術」をすることになりますが、自分の場合は比較的少量で、翌日には出血が止まっていることが確認されたので、3日目に一般病棟に移ったのです。とはいえ左半身の麻痺と言語障害は残った状態でした。

ともあれ、高血圧→脳の血管が破れる=脳出血という「基本パターン」でそれは発症したのであります。

自分の場合は「いまさら」ですが、筑波大学の先生によるこの講演、講演の最後に紹介された脳卒中予防十ヶ条」は、本当にグサっと刺さるものでした

 

www.youtube.com

 

脳卒中予防十ヶ条」その1と2

 

1. 手始めに、高血圧から、治しましょう

2. 糖尿病、放っておいたら、悔い残る

 

後悔先に立たず。なのであります。

最後に、横浜市が出している脳血管疾患の解説がわかりやすいので、これもリンクしておきます。

www.city.yokohama.lg.jp

2日目〜再起動

【ストーリー】2024年10月30日 水曜日

 

10月29日早朝6時過ぎのシャワー後に突然左手が「落ち」て、左半身の感覚も言葉も失って救急搬送された私は、脳出血の診断でいますぐ入院という宣告を受けた。「発症当日」の左手は私の身体の横で文字通りピクリともせず「死んで」いた

 

今日は入院、の連絡をしてほっと一息、眠りに落ちたあとも、初日は起きたり眠ったりの繰り返しがあった。

まず午前10時を回った頃実家から母親がやって来た。何が起きた?みたいな事を聞くので「脳出血」と、医師から聞いたまんま答えた。その後、入院生活のあれこれについて看護師とやりとりを、例えばパジャマを1日いくらでレンタルするなど会話していたようだが、私はすぐに寝てしまった。

また何時か分からないが起こされ、目を開けると「診察券ですよ!」と見知らぬ誰かがカードを目の前に出して叫んでいた。そういえば健康保険証はと聞かれ財布の中に入ってると答えた気はするが、わざわざ病院の診察券を作ったことを知らせてくれたのか、有り難いが今じゃなくても良いのにと思ってまたすぐに寝てしまった。

おそらく午後になってからだと思うが、若い男性が現れ、私の体をチェックした。

彼は「右足は上がりますか?」(上がる)「左足はどうですか?」(上がる)「左手は?」まったく動かない、その左手を握って、明日からリハビリを始めますと言った(ような気がする)

名札には名前のほかに理学療法士と書いてあった。へえ、理学療法士というのはそういう職種なのか。聞いたことはあったがその種の仕事をする人に会うのは初めてだった。このあと目を覚ましたのは夕方4時頃で、「あ~もう夕方か」夜7時「あ~バンめし時か」(食欲は無い)

その後来たのは「言語聴覚士」と名札に書かれた女性だったと思うが、その辺から記憶は曖昧になる。あるいはもう2日目だったかもしれない。

「あいうと言って、最後にベロを出してべーと言ってみて」

あ〜い〜う〜・・・べ〜。

次。

「パと言ってみて、パパパパ?」パパパパ

「タタタタと言って」タタタタ

「カカカカ」カカカカ

「ララララ」ララララ

「パタカラは?」パタカラ

では繰り返して、パタカラ、パタカラ、パタカラ、パタカラ。。。

私の言語障害を取り除くべく、リハビリを始めているのだな。「パ」と「ラ」の発声はビミョーだと思ったが、口を動かし、彼女が去った後、私は眠った。

 

さて2日目である。

午前中にまた、知らない男性がやってきて言った「リハビリ頑張りましょう」昨日やってきた理学療法士の仲間か。(実は理学療法士とは別の作業療法士である事が後に判明する) 同じように足が上げられるかどうかをチェックし、次に右手を上げさせたあと今度は左手を取った。左手を触られている感覚があった。

「左手を握ってください」お、動いた(ような気がする!)

理学療法士も何かを感じ取った。動きますね。

「リハビリで脳と手の間に新しい神経回路を作り直すんです。頑張りましょう!じゃまた来ます!」

あらもう帰っちゃったの?と思ったのだが、理学療法士が私の手を元通りにするための活動をしようとしている事は分かった。左手はまだ動く感じではなかったが、触覚はあった。肩から腕を動かすことならできるのではと考え、左肩を少し上に動かしてみると、たしかにそれは動いたのである。これなら左肘を上げることもできるだろう。次にやったことは身体全体を右に傾け、肩から繋がる左肘を腹の上に持ってきて、そうして左肘はゆっくりと、クレーンのような腕を動かしたのだった、ただし左手はまだだらんと垂れ下がっていた。とりあえず動かせそうだ。明日になれば動くのではないか。

私は満足した。

今日はまたCTを撮りますと言われ、車椅子が用意された。人生初の車椅子だが、ベッドからの移乗はそれほど大変ではなかった。というのも私は自力で立ったからだ。左足はおぼつかなかったが、ひと夏スクワットで鍛えた右足は力強く、身体を支えた。

エレベーターに乗る際、SCUが4階にあることを把握しCT検査室に入る。前日=初日と別のフロアにある別の機械のようで、撮影はすぐ終わりSCUに戻った。2日目のCT画像では、新たな出血がなかったという事を、後で看護師から聞く。

ベッドには次々に知らない人がやってくる。

ソーシャルワーカーの▪️▪️です」ソーシャルワーカーってどんな人。

この病院はリハビリ専門ではないので、リハビリにかけられる時間が短いんですと。ここより3倍も時間がかけられるリハビリ専門なら、と2つの病院を紹介される。随分と手回しのいいこと。この病院の救急医療の定型ワークフローなのだろう。とはいえ自分に今決めろと言われても・・・モゴモゴしていると、2つの病院への転院可否を問い合わせしましょうか?いやそれでいいじゃん、と頷いて会話はおわった。

お昼まえ「今日はお昼ご飯が出ます」

そうだ、きのう朝食も摂らず病院に来たので40時間くらいは何も食べていない。昼食のメインは魚の唐揚げだったのだ・・・完食。

食後、その日はやることもなかったが、看護師が時折やってきては、「あいうべ体操」と「パパパパ」「タタタタ」「カカカカ」「ララララ」そして「パタカラ」を繰り返し発声させるのだった。これは言語障害に対するリハビリなのだと理解した。

夕方、SCUはにわかに慌ただしくなった。私の居る7号室の隣、6番にカーテンがひかれ、新たな患者が入ってきたのである。入ったのは高齢男性のようだ。「◯◯さん聞こえますか〜?」吸引する音がした。「オペ」「8時15分からオペ」というのが何度も聞こえた。家族が来て、子ども(孫?)達が直前の出来事を会話しているようだった。手術が終わるのは深夜になります、との説明も聞こえた。

2日目が終わる頃、左肩を回しながら左腕は肘を曲げたままクレーンのように回転した。腹の上に落ちた左手が緩く丸まった中途半端な拳を作った状態で、親指がゆっくり動いた。そして拳は少しだけかたく握られた。

左手は「再起動」した。6号室は誰もおらず静かになった。

 

(続く)

 

 

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発症(2)

【ストーリー】2024年10月29日 火曜日 0700-0830

 

家の前で上半身裸で仰向けにひっくり返ったまま数人の救急隊員がやってきたとき、自分が気にしていたのは財布の中にお金が入っているかどうかと、健康保険証があるかどうか、そして自分で着ることができなかったTシャツのことだった。このビョーキ、治療にはきっとカネがかかる。保険証がないと大変だろうと思った。心配するのはいつもそっちか。

「ウチの中に・・・スマホとさいふがあるから・・・取って。あとシャツ・・も・・・」相変わらず呂律が回らないままお願いを繰り返したあとは運ばれるだけ

 

救急車の中で横になった私に、救急隊員の一人が言った。

「おうちの人に電話してください」

渡された自分のスマートフォンから実家に電話をかける。呼び出し音が何回か続いて声がした時には、電話機は救急隊員に差し出された。自分で話す気にもならなかったのだ。

「こちら東京消防庁の救急隊ですけれども、◯◯さん、いま病院を決めているところて、、あ、今決まりました、墨東病院です。錦糸町です。はい、、そういう事で、なるべく早く来てもらえますか」通話の終わったスマホは私の手に戻った、戻ったがその後どうしたかは記憶にない。財布をどうしたのかも記憶になかったが、救急隊員がビニール袋にスマホと財布を入れてついてきたのを見てあとで安心する。

救急車から降ろされた私は、馴染みのない病院の急患の入り口?から運び込まれた、そこはまだ朝早いのに騒然としていた。ERか。隊員たちは私の背中の下に金属製のプレートを差し込み、「いっせーの」で私の体を別のストレッチャーに移し、ほどなくその後救急隊員はいなくなった、お礼を言うヒマも無かった。今度はいつしか周囲は白衣や病院服の人たちだらけになった。左手は胴体の隣に横たわったままピクリとも動かなかった。目の前は診察室のような風景でデスク上のPCを若い研修医のような人物が向かっていた。これから診察でもあるのだろうか

いや

「CTいきまーす」

あ~おれ今からCTの放射線を浴びるのだ、ここの装置はどこのメーカー製だ。日本製の医療機器の発する放射線は欧米より強いのがちょっとイヤだな。とはいってもしれてるはずだが。数年前に一緒に仕事をした医療画像システムの会社で聞いた話では、日本メーカーのCTは欧米製より強い放射線を出すかわりに鮮明な画像を得られるのだ、患者にとってどちらがメリットだろう・・そんなことを思っているうち、ドーム?に入れられ、スキャンはあっという間に終わった。装置から出ると私は頭を持ち上げて振り返った。SIEMENSか、あらジーメンス。この病院が使用しているのはドイツ製のCTなのか。なんか安心。

その後もERは騒がしかった、誰か男性が大声で「意識消失の人来ました〜!!」と叫んでいる。さっき見た医師のデスクには小柄な若い女の子が座ってなにか画像を見ているようだ、オレのCT画像だろうか。そんな事を考えていたらいつの間に「女の子」は私のすぐ横に立つていた。

脳出血ですので、いますぐ入院になります、治療を始めます」ほっとした、

「リハビリは最大で半年くらい」

「にう、、いん」

相変わらずマトモに発声できない声で反復して考えた。

そうか、半年ね。半年。。。

エーえ〜〜〜!!半年つて、おまマジかよ!何考えてんだよ!オレは仕事してるんだよ、案件どうするのさ、開発中のアプリは?例の追加開発や保守契約は?住み始めたばかりのマンスリーマンションは、そのまま契約期間終わったら引っ越しどーすんのさ。会社のメンバーは?会社も干上がっちまうじゃないか。5年前に立ち上げたばかりの会社は経営破綻てことになるのか?いや、そんな医者からしたら知ったことじゃない、治してもらうほかない。健康診断を5年も受けなかったのは自業自得だ。実際リハビリに何日かかるのか。このまま左手が麻痺して不自由になるとは言われていない。言われたのはリハビリにそれなり時間がかかるということだ。とりあえず今日のお客さん対応は全部キャンセルで連絡をせねば。

押し寄せる現実世界の課題と、渦を巻く思考と感情。

問診なんてものはなく、それは私への宣告だった。私は横になったまま、また移動した。エレベーターに乗っていたようだが、上下に動いているという感覚はなかった。大きなドアが開いて「SCU」という文字が見えた。ICUはよく見るが、SCUってなんだ聞いたことがないぞ。

後で知ったそこはStroke Care Unit 「脳卒中ケアユニット」であった。今度は固定のベッドに移されれ。眼の前には7(号室)の数字。右手に太い針が刺さって、点滴のボトルが2本ななめ頭上にあった。

(続く)

 

 

SCU(Stoke Care Unit)

【ストーリー】2024年10月29日 火曜日 0830~2400

 

早朝6時過ぎのシャワー後に突然左手が「落ち」て、左半身の感覚も言葉も失って救急搬送された私が、今日いますぐ入院という宣告を受けて入れられたのは「SCU」という文字のついた部屋だった。

 

集中治療室はICUだろ、なんだろうSCUとは?その疑問は一旦脇において、自分が入ったのはカーテンで仕切られ、7の数字がそのカーテン上部に書かれた「7号室」である。そして数字の左奥に見える壁には時計が掛かっていた、まだ朝の8時過ぎであることを示していた。

ストレッチャーから病室のベッドに移されて横たわり、左手のほうに目をやると、「それ」は力なく私の胴体の真横に存在していた。不思議な感覚だが、左手に力を入れたり、指を「動かして」みると、動いているような気がする。ところが目から入ってくる映像では、それはピクリともしなかった。手足を失った人が、まだ「それ」がついているような感覚を持つという話を聞くが、同様に、脳だけが左手に動作を指示し、脳はそれが動いた結果を受け取ったと錯覚しているのか。

右手は普段通りに動く。アタマもスッキリしていた。頭痛も吐き気もないが、「頭は痛くないですかー?吐き気はしませんか?」と看護師たちは時折私に尋ねる、またペンライトで目に光を当てて瞳孔をチェックしているようだ、生存確認なのか。

脳出血というのに頭痛は全くなく、意識障害も全く出ずに、自分の脳が出血しているとは思えなかった。ただしかし、声は明らかにいつもの自分の声ではなく、右手は点滴から薬剤を受け取っていた。脳出血の治療はクスリでやるという事を理解した。出血したのだから血圧を下げる。脳の血管からの出血は止まるのを待つだけなんすかね。

救急隊員に一緒に持ってきてもらった財布とスマホはどうしたのだろう。連絡しなければと思った。脇の看護師に「あの~スマホはどこですかね」と。

看護師は「ここでは禁止なんです、、、本当はダメなんですよ」と、もじもじして言いながら、ベッド脇の引き出しを開けてくれた。財布もスマホも無事である。

なんだろうSCUとは?

先ほどの疑問を検索して調べると、それはStroke Care Unitの略だった。脳卒中ケア・ユニット。Sltrokeとは英語で「一撃」か。一撃を食らって倒れる、まさに西洋らしい「脳卒中」だと思った。

スマホのバッテリーがあるうちにと、連絡メッセージを入れ始めた。会社のスタッフ、それからいま契約中のお客さん。けさ倒れて病院の脳卒中ケア・ユニットに入ってます。今日は入院で何も出来ません、と。

それが終われば、今日の「シゴト」はもう無い。尿意を催して看護師を呼び、尿瓶(しびん)で排出したが、30分も経たないうちにまた催して来た、「あっそれは点滴のせいですよ!」それで私はジーパンと下着を全部脱がされ、オムツを履き、管を入れられて尿は全て自動的に吸い出されるようにされたのだった。上半身もパジャマ1枚にされた。今日はメシもないのか、いやあるわけ無いか(食欲もない)この左手が再び動くことはあるのか。いつのまに眠りに落ち、初日が終わった。

(続く)

 

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